【余句(近肖古王の名前)とオグナ(ヤマトタケルの名前)が同一人物であるとする史料的根拠:】 【2年春3月、丙寅を朔とする戊辰(3日)に、播磨の稲日大郎姫(い… · @mithrayeogu · TwKit
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【余句(近肖古王の名前)とオグナ(ヤマトタケルの名前)が同一人物であるとする史料的根拠:】 【2年春3月、丙寅を朔とする戊辰(3日)に、播磨の稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)注001【ある書(一書)では稲日稚郎姫(いなびのわきいらつめ)注002という。「郎姫」注003は「異羅菟咩(いらつめ)」と読む。】を立てて皇后とした。 皇后は二人の男子を産んだ。 第一子を大碓皇子(おおうすのみこ)注004といい、第二子を小碓尊(おうすのみこと)注005という。【ある書(一書)では、皇后は三人の男子注006を産み、第三子を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)注007といった。】 大碓皇子と小碓尊は、同じ日に同じ母胎注008から生まれた双子であった。 天皇はこれを不思議に思い、臼(うす)に向かって諭した注009。 このため、二人の皇子を大碓・小碓と呼ぶようになった。 小碓尊は、また日本童男(やまとおぐな)注010とも呼ばれた。【「童男」は「鳥具奈(おぐな)」と読む。】 また、日本武尊(やまとたけるのみこと)注011とも呼ばれた。 幼い頃から雄々しく勇猛で、優れた策略を備える気概があった。 成人すると、体格は大きく、容貌は堂々として立派であり、身長は一丈、力は鼎を持ち上げることができるほどであった。】 (二年 春三月丙寅朔戊辰, 立播磨 稻日大郞姬[一云, 稻日稚郞姬. 郞姬, 此云異羅菟咩]. 爲皇后. 后生二男. 第一曰大碓皇子. 第二曰小碓尊[一書云, 皇后生三男. 第三曰稚倭根子皇子.]. 其大碓皇子·小碓尊, 一日同胞而雙주 001生. 天皇異之, 則誥於碓. 故因號其二王曰大碓·小碓也. 是小碓尊, 亦名日本童男[童男, 此云鳥具奈.]. 亦曰日本武尊. 幼有雄略之氣, 及壯容貌魁偉, 身長一丈力能扛鼎焉. 校勘注001) 小学館本では「双」と記されている。直接リンク。) ——『日本書紀』景行天皇紀 オグナ・タケルは、景行天皇(ケイコウ天皇)の第二子です。 『日本書紀』はオグナ・タケルについて、次のように記しています。 「幼い頃から雄々しく勇猛で、優れた策略を備える気概があった。成人すると、体格は大きく、容貌は堂々として立派であり、身長は一丈、力は鼎を持ち上げることができるほどであった。」 【近肖古王が即位する(346年9月・旧暦) 近肖古王, 比流王第二子也. 體貌竒偉, 有逺識. 契王薨, 繼位. 近肖古王(きんしょうこおう)は比流王の第二子である。体格は大きく、容貌は奇異で堂々としており、遠大な識見を持っていた。契王が崩御すると、その後を継いで即位した。】 ——『三国史記』百済本紀・近肖古王条 『三国史記』は余句(近肖古王)について、次のように記しています。 「近肖古王は比流王の第二子である。体格は大きく、容貌は奇異で堂々としており、遠大な識見を持っていた。」 この表現は、オグナに関する記述と非常によく似ています。 余句:yeo gu(ヨグ)。 オグナ:oguna(オグナ)。 両者の発音は似ています。 百済の王を意味する「於羅瑕(オラハ/オラカ)」、oraka。 扶余最後の王とされる「依慮(オリョ)」、oryeo。 扶余最後の王「依慮」の息子である「依羅(オラ)」、ora。 oguna、oraka、oryeo、ora。 これらは互いによく似ています。 余句:比流王の第二子です。 オグナ:景行天皇の第二子です。 余句:体格が大きく、容貌が奇異で堂々としていました。 オグナ:成人すると容貌は大きく立派で、身長は一丈、力は鼎を持ち上げることができるほどでした。 余句:遠大な識見を持っていました。 オグナ:幼い頃から雄々しく勇猛で、策略に優れた気概を持っていました。 人物紹介の内容が互いによく似ています。 そして、決定的な事件までもが似ています。 余句の父親である比流王が即位する前、汾西王は楽浪太守が送り込んだ美少年の刺客によって暗殺されます。 その後、比流王が即位します。 この楽浪太守とは、遼西の楽浪を支配していた慕容廆ではないでしょうか。 汾西王を暗殺した、女装して剣舞を舞う美少年の刺客「黄昌郎(ファンチャンラン)」の伝説が、オグナ・タケルの物語と似ていることが、果たして単なる偶然なのでしょうか。 『日本書紀』と『古事記』では、美少年オグナ・タケルは16歳の時、熊襲と百済の鬼神を征伐するため、「タケル」という王を暗殺しようとします。 (この「タケル」とは、近蓋婁・大蓋婁などに関係し、百済の王を意味する言葉ではないでしょうか。) そのために女装し、酒宴に潜入します。 タケル王とその弟にからかわれ、弄ばれた後、夜の寝所でタケル兄弟を二人とも殺してしまいます。 その後、百済(柏濟・カシハノワタリ)【「濟」は「和多利(ワタリ)」と読む。】の悪神を殺します。 『日本書紀』景行天皇紀においてオグナに討伐される百済(柏濟)。 『三国志』東夷伝に登場する百済(伯濟)。 そして『三国史記』百済本紀に登場する百済(百濟)。 それぞれの漢字がよく似ています。 実際には、こうした形で真実の歴史を暗号化して隠したのではないでしょうか。 【日本武尊が熊襲を討伐する 日付 (景行天皇27年)12月 関連資料 早稲田大学電子図書館の関連資料 12月、日本武尊は熊襲国に到着した。 そこで、人々の生活の様子や地形の険しさ、平坦さなどを調べた。 その時、熊襲には一人の首領がいた。 その名は取石鹿文(とろしかや)注001、または川上梟帥(かわかみたける)といった。 彼は一族をすべて集めて宴会を開こうとしていた。 そこで日本武尊は髪をほどき、少女の姿に変装して、ひそかに川上梟帥の宴会へ赴き、機会をうかがっていた。 日本武尊は剣を衣服の中に隠し持ち、川上梟帥が宴会を開いている部屋に入り、女性たちの中に紛れ込んだ。 川上梟帥はその少女の容姿を褒め、手を取って同じ席に座らせ、杯を持ち上げて酒を飲ませ、戯れた。 やがて夜が更け、人々も少なくなっていった。 川上梟帥は酒に酔っていた。 その時、日本武尊は衣服の中に隠していた剣を抜き、川上梟帥の胸を刺した。 まだ息が絶えないうちに、川上梟帥は頭を下げて言った。 「少しお待ちください。申し上げたいことがあります。」 日本武尊は剣をいったん止め、言葉を待った。 川上梟帥は尋ねた。 「あなた様は一体どなたですか。」 日本武尊は答えた。 「私は大足彦天皇注002の子である。名を日本童男注003という。」 川上梟帥はさらに言った。 「私はこの国で最も力の強い者です。 そのため、世の人々は皆、私の威力に圧倒され、従わない者は一人もいませんでした。 私は多くの勇敢な者に出会ってきましたが、皇子のようなお方に出会ったことはありません。 そこで、卑しい賊の拙い口からではありますが、尊号を奉りたいと思います。 お許しいただけますでしょうか。」 日本武尊は答えた。 「許そう。」 すると川上梟帥は言った。 「今後、皇子の御名を日本武皇子(やまとたけるのみこ)とお呼びすべきです。」 言い終わると、日本武尊は剣を胸に突き通し、川上梟帥を殺した。 このため、現在に至るまで「日本武尊」と尊称されているのである。 これがその由来である。 その後、日本武尊は弟彦らを派遣し、川上梟帥の一味をすべて斬り殺させ、一人も生き残らせなかった。 そして海路を通って倭へ帰還した。 吉備(きび)に到着すると、穴海(あなのうみ)注004を渡り、その地の悪神を殺した。 さらに難波(なにわ)へ帰る途中、百済(柏濟・カシハノワタリ)の悪神を殺した。【「濟」は「和多利(ワタリ)」と読む。】】 (十二月, 到於熊襲國. 因以伺其消息及地形之嶮易. 時熊襲有魁帥者. 名取石鹿文, 亦曰川上梟帥. 悉集親族而欲宴. 於是日本武尊解髮作董女姿, 以密伺川上梟帥之宴時. 仍佩劍裀裏, 入於川上梟帥之宴室, 居女人之中. 川上梟帥感其童女之容姿, 則携手同席, 擧坏令飮而戲弄. 于時也更深人闌. 川上梟帥且被酒. 於是日本武尊抽裀中之劍, 刺川上梟帥之胸. 未及之死, 川上梟帥叩頭曰, 且待之. 吾有所言. 時日本武尊, 留劍待之. 川上梟帥啓之曰, 汝尊誰人也. 對曰, 吾是大足彦天皇之子也. 名曰日本童男也. 川上梟帥亦啓之曰, 吾是國中之强力者也. 是以當時諸人, 不勝我之威力, 而無不從者. 吾多遇武力矣, 未有若皇子者. 是以, 賤賊陋口以奉尊號. 若聽乎. 曰, 聽之. 卽啓曰, 自今以後號皇子應稱日本武皇子. 言訖乃通胸而殺之. 故至于今, 稱曰日本武尊, 是其緣也. 然後遣弟彦等, 悉斬其黨類, 無餘噍. 旣而從海路還倭, 到吉備以渡穴海. 其處有惡神. 則殺之. 亦比至難波, 殺柏濟之惡神[濟, 此云和多利.].) 翻訳注001) 景行天皇12年12月条にも類似した説話が見られるが、そこでは厚鹿文と迮鹿文として登場する。『古事記』では熊曾建兄弟と記されている。直接リンク。 翻訳注002) 景行天皇を指す。直接リンク。 翻訳注003) 日本武尊の別名で、景行天皇2年3月条に見られる。直接リンク。 翻訳注004) 古くから瀬戸内海航路の要衝であり、現在の山口県下関市に比定する説と、吉備の穴地域とする説がある。直接リンク。 ——『日本書紀』景行天皇紀】
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